LOGIN「……そうか。じゃあ、メシにしてくれ」「はい」 ぐうの音も出なくなった正樹さんに向かって、あたしは内心ガッツポーズをした。 ――夕食後。キッチンで洗いものを終わらせたあたしは、リビングでタブレットをいじっていた正樹さんに転職話をぶつけてみた。「正樹さん、大事なお話があるんですけど」 彼は「何だ?」とも何とも言わず、リビングに戻って立ったままでいるあたしに視線だけで応える。あたしは構わずに話を続けた。「あたし、転職しようと思ってるんです。知り合いが少し前に始めた会社があって、今日『手伝ってほしい』って誘われて。正社員待遇なんですけど」 彼が次に何を言うのかはもう予想がついている。『そんなの認めない』『許さない』 でも、あたしは引き下がるつもりはない。もう決めたから。「正社員っていっても、月収制ってだけで。時間はフレックスだから早めに帰って来られるんです。家事をするにも差し支えありません」 タブレットから顔を上げた正樹さんの眉が、ピクリと動いた。「あたし、やっぱりパートよりも会社勤めがしたいんです。『自分も社会の中の一員なんだ』って実感したいんです。福利厚生だって、正社員の方が絶対いいし。だから――」「そんな勝手なこと、俺が許すと――」「『許さない』なんて言ってもムダです。もう先方にはOKの返事しちゃいましたから」 どうせ「許さない」と言われるだろうと思い、あたしは先手を打った。――でも、「返事をした」というのはハッタリだ。もちろん大智の誘いには乗るつもりでいるけど、まだ返事なんてしていない。 ただ、この話だけは正樹さんに反対されたくなかった。そのためには、あたしがもう返事をしたんだと、もう決まっているんだとこの人に思わせたかったのだ。「今の職場の退職の手続きもキチンとします。入社はそれからでもいいって言われてますから」「里桜……、そんなことで、俺がお前の転職を認めると――」「あなたに認めてもらう必要なんてないでしょう? あたしはあなたに雇われてるわけじゃないんですから。あたしが決めたことに、あなたが反対する権利はないと思います」 あたしはこの際だから、言いたいことをズバズバ言ってのけた。あたしがちゃんと自己主張できる女だということを、この分らず屋の夫に知ってもらいたかったのだ。「里桜」「とにかく、あな
「ああ、引き留めてゴメン。……里桜、いい返事期待してるから」 彼の会社に入ること、彼の側にまた戻れること。……あたしには何の躊躇もなくなっていた。「うん」「――支払いはオレがしとく」 大智がそう言うので、あたしは彼の厚意に素直に甘えることにした。 カフェを出ると、普段からよく買い物をしている高級スーパーで夕食の材料を買い込み、急いでマンションに帰った。〝マンション〟とはいっても、あたしと正樹さんの夫婦が住んでいるのは三十五階建て・オートロック付きの超高層マンション。ちなみに賃貸ではなく、藤木グループの持ち物である。 スーパーの店内で迷ったすえに、夕食メニューは豚肉のショウガ焼きときんぴらごぼうに決めた。あたしはこれでも料理が得意なのだ。 でも、こうしてあたしが一生懸命考えてお料理しても、あの人は「美味しい」とも「まずい」とも、何も感想を言ってくれないから、料理をする側としては何とも作り甲斐がない。 そもそもあの人は、他の家事についても感謝すらしてくれない。家政婦のやることには、いちいち感謝するのもバカらしいんだろうか。 別にあたしにだって、好きでもないあの人に恩を売る気は毛頭ないのだけれど。 一通りの家事をこなした後、いつもならあたしは自分のノートパソコンに向かって小説を執筆するのだけれど。今日はリビングのソファーに座り込み、大智からもらった名刺を見つめていた。『オレのケータイ変わってねえから』 大智はそう言っていたけれど、名刺の裏面にはご丁寧にケータイの番号まで書いてある。あたしが万が一メモリーを消していた場合のことを考えたんだろうか?「大智……」 彼はあたしのことをちゃんと覚えていてくれた。ずっと忘れないでいてくれたんだ。そしてまさに今、困っているあたしを救おうとしてくれている。 あたしは今夜、正樹さんが帰って来たらこの転職話をしようと決めていた。あの人が何と言おうと、もう心は決まっていることも。 ……だって、あたしはまだ大智に惹かれているから。もう名ばかりの夫の言いなりになるのもバカバカしく思えてきたのだ。 これはあたしの人生なんだ。だったら、理不尽な要求に従順でいる必要なんてない。あたし
「業種は?」「ITベンチャー。具体的には、依頼先のネット環境を調整したり、タブレットを導入してもらったりとか」「へえ……」 彼は確か、大学卒業後はどこかの企業に就職していたはずだけど。まさかこの若さで独立していたとは思わなかった。「里桜は? 今も働いてんの?」「あー、うん。一応、小さな印刷会社で事務のパートをね」 あたしは結婚を機に会社を辞めさせられたこと、夫の正樹さんにパート勤めしか認めてもらえないことを打ち明けた。「ふーん? もったいないなあ。つうか何サマだよ、お前のダンナ? 釣った魚にエサやらないどころか完全に飼い殺しじゃん」 大智はあたしの話を聞いて、夫のことをボロカスに吐き捨てる。あたしの言いたいことをすべて代弁してくれているので、胸の中がスカッとした。「家事さえキチンとこなせれば、何もパートにこだわる必要もないんだけどね」 これはあくまで、あたしの勝手な解釈だ。正樹さんは「パートで働く分には構わない」としか言わなかったし。 でもあたしは、できることなら正社員としてバリバリ仕事がしたい。時間に縛られなければ……ということだけれど、そんな都合のいい話ってあるんだろうか?「なあ、里桜。転職する気ない?」「……え?」 「お前に、オレの会社手伝ってほしいんだけど」「それって正社員で、ってこと? でも」 あたしはためらった。正社員待遇ということは、パートタイマーのように時間の融通はきかないのかもしれない。 それに、正樹さんに相談したところで許してもらえるのか、という問題もある。――まあ、相談なしに決めたところで、あの人はどのみち怒るだろうけど。「……ああ、勤務時間のこと心配してるんなら大丈夫だぜ。ウチはフレックスタイム採用してるから、里桜の都合で出社して、好きなタイミングで帰ってもらって構わない。それでも月給制だから、正社員並みの給料は保障するよ」「えっ、そうなの?」 ……フレックスタイム。そんでもって月給制。大智の会社の待遇は、あたしにとって願ったりかなったりの好条件だった。「里桜、オレはお前と一緒に働きたい。オレがお前を救いたいんだよ。こんなことしかできねえけど……。どうしてか分かるだろ?」「…………うん」 あたしがまだ大智を好きなよ
――そういえば、三年ぶりに会った大智はなんか垢ぬけているし、着ているものも洗練されたジャケットにスラックスでなんかシャレている。 彼は今、一体どんな仕事をしてるんだろう――? ――カフェに入ると、あたしと大智は二人掛けのテーブルに向かい合わせで座った。 まだ四月で少し肌寒いので、オーダーしたのは二人ともホット。あたしはラテで、彼はブラックだ。「――里桜、元気だった?」「うん、まあね」「結婚したんだって? 風のウワサで聞いた」「……うん」 大智に結婚のことを言われ、あたしは何だか後ろめたい気持ちになり、左手の薬指を隠した。 この指輪はいわば〝幸せの象徴〟のはず。でも、あたしはちっとも幸せじゃない。「そのわりには、あんまり幸せそうじゃねえな」 そんなあたしの心の内を見透かされたように、絶妙のタイミングで大智にそう言われた。「うん……。実は、この結婚は不可抗力だったの。色々と事情があって……」 あたしは彼に、洗いざらい話した。――父が抱えた一億円の借金のこと、その肩代わりを夫である正樹さんのお義父さまがして下さったこと、その条件としてあたしが藤木家に|
――〈駒田印刷〉は社長ご夫妻と十人くらいの社員さん達が切り盛りしている、いわゆる町の印刷屋さんだ。「藤木さーん、お客さんにお茶お出しして」「はい」「それ終わったら、事務所のコピー機の用紙補充しておいてね」「分かりました」「あと、伝票の整理もね」 「……はい」 事務のパートで入ったはずのあたしの仕事は、雑用がほとんどだった。とはいえ伝票を整理したり、経費の計算をしたりという事務作業もあるので、商社勤めの経験は多少は役に立つ。 あたしはそういう仕事を週四でこなし、夕方早めに帰宅して、夕食の支度や家事の合間にせっせと小説の投稿をしていた。 でも、ほとんどルーティンワークのような毎日には刺激がなく、正樹さんは相変わらずあたしに無関心。そのくせ、「あれはダメ」、「それは認めない」とやることなすこといちいち口うるさい。 そんな毎日に、あたしは早くもウンザリしていた。 ――そんなある日の退勤後。 あたしの勤務時間は朝十時から夕方四時までだ。「働きたい」と言った時に正樹さんが出した条件が、「勤め先から帰ってちゃんと家事をこなすこと」だったからである。「お疲れさまでした。お先に失礼します」 小さなロッカールームで作業着を脱ぎ、私服姿で社長に挨拶をして、あたしは会社を出た。 〈駒田印刷〉での仕事はけっこう楽しい。社長を始めとする社員さん達からはよくして頂いているし、雑用だって苦にはならない。 でも&hel
――こうして、あたしにとって地獄のような結婚生活が始まった。 結婚式には、新郎側が大企業の一族ということもあり、仰々しいほど盛大な披露宴が行われた。でも、あたしは全然楽しくなかったし、その時の豪華なお料理の味も思い出せない。 そこはあくまで「藤木一族の嫁を世間に公表する場」であり、新婦であるあたし自身がこの結婚を喜んでいようがいまいが、あたしが死刑台に向かうような気持ちでいようが、出席者には一切関係なかったらしい。 そして、彼――新郎である正樹さん――の態度にも、あたしは絶望した。彼は式の間も披露宴の席でもずっとあたしには素っ気なく、それは初夜でも変わらなかった。 彼には、あたしを女として愛する気は全くないらしい。だから、初夜にあたしを抱いたのも,彼にとってはただのデモンストレーション。儀式でしかなかったのだ。 あたしはそんな男と、チャペルの祭壇の前で偽りの誓いを立てさせられたのだった――。 ハネムーンにも行かず、あたしと正樹さんとの新婚生活が始まった。 救いだったのは彼の実家での同居ではなく、実家近くの高層マンションでの夫婦二人きりの暮らしだったこと。それでも、あたしには気の休まるヒマがなかった。原因は彼のお義母さまだった。「里桜さん、あなたは藤木家の嫁なんですから。自分の考えは捨てて、常に正樹を立てるようになさい。それが嫁の務めですよ」 義母はことあるごとに新居を訪ねてきては、あたしにそんなことを言っていく。典型的な「嫁いびり好きの姑」だった。 お義父さまにはご恩があるし、あたしのことを気にかけて下さるから、義父との関係はまずまず良好なのだけれど。 父の会社も買収されることなく、これまで通りに〈田澤フード〉として経営させてもらっているそうだし。 でも、義母と正樹さんはあたしの人格そのものが気に入らないらしい。というか、正樹さんはあたしに関心がないらしいし、何事も義母の言いなりだ。この二人はいわゆる典型的な〝モラハラ親子〟だった。 あたしが「パートで働きたい」と言った時にもひと悶着あったけれど、彼はどうにか許してくれた。 見つけた仕事は、小さな印刷会社の事